環境破壊が日ごとに激化し、自然がわたしたちの身の回りから急速に消えて行く。筑波学園都市も例外ではなく、わずか15年から20年で、姿を消していく鳥や虫、獣はふえるばかりだ。こうなると、そろそろ出てくるのが、この町に動物園や水族館を造ろうというベンチャー企業の進出だ。だが、その考えはもはや国際的に通用しない時代遅れのものである。なぜ動物園や水族館がいけないのか。まず基本的に、これらの施設が動物たちの終身牢獄であり、自然教育を隠れみのにした金儲けの施設に過ぎないからである。
四つの使命のウソと八つの害悪
動物園や水族館存続のために最近特に喧伝されている次のような、四つの使命観がある。
(1)教育の役に立つ。
(2)研究の役に立つ。
(3)レクリエーションに役立つ。
(4)自然保護に役立つ。
しかし、動物園・水族館は、じつは八つの大きな害悪を社会に流す。まず、
第1、動物の虐待。捕らえられ、檻に押し込められた動物たちがその牢獄から出られるのは死んだ時だけである。それまでの間、動物たちは人間とは違う形をしたものを見たいという人間の欲望を満足させるために見世物としての一生を強いられる。また、戦争、地震などの災害発生の折りには、逃亡を防ぐために、殺されることが多い。
第2、誤った教育をする。これについては後で述べる。
第3、囚われの動物を見世物にする点で、誤った娯楽を提供する。
第4、動物園やサファリパーク、水族館を作り、そこに連れてくる動物を調達するために、その動物の原生息地で動物の乱獲をおこない、動物の絶滅を促進する。最近では施設で生まれた動物も増えているが、だからといって、かれらを一生施設に閉じ込めておく理由にはならない。動物たちにはそれぞれに自然界で果たすべき生態的な役割があるからだ。
第5、動物園やサファリパーク、水族館の建設地の自然や景観を大規模に破壊する。
第6、動物園に囲われた動物の糞尿、臭気、鳴き声、及び入園者のバスや車などによって、その建設地周辺の住環境を著しくそこなう。
第7、その施設から逃亡した動物が社会に大きなパニックを与え社会混乱のもとになる。
第8、動物たちは人畜共通伝染病の宿主となる例が多く、特に幼児を連れて行くこれらの施設は常に園内感染源の危険をはらむ。
このように、動物園や水族館側が主張する四つの使命は、自然を正しく理解するためには、すべて正当性をもちえない。さらに、おまけが四つもついた八大害悪を社会にもたらす反社会的な施設が動物園や水族館だと結論づけられる。
マイナスの教育効果
動物園や水族館には自然を正しく理解するために必要な決定的基本要素がそっくり抜け落ちている。それはまず第一に環境である。動物たちが囲われている動物園や水族館内の環境はその動物が本来生きている野性地での温度、湿度、天候、匂い、水、土、植物、人その他の動物など全てのものが取り去られて、自然界にはない不当な動物や環境の組み合わせが作り出されている。
また、動物園や水族館では自然や動物に出会うまでの苦労といったものが全部消えている。私たちは電車に乗ってちょっとバスに乗るぐらいで、動物達がゾロゾロいるところに行ける。しかし、本物の自然というものはそれほど安直なものではない。かなりの労苦に耐え、資金や体力を使って、やっと目当ての動物や自然に接近できるというものだ。また動物園や水族館では動物に接する危険というものがない。動物の中にはウサギのように危険のない動物もいるが、少なくともライオンやトラのような猛獣に接近しようとする時、私たちは自分の生命を危険にさらさなくてはならない。ところが動物園では、そういう緊張感が全くない。まるで楽しい遠足に出かけるような気楽さで行けるし、事実、動物園や水族館へ遠足にでかけたり、サファリパークへ修学旅行に行くなどの学校行事が行われている。そのような安直な方法で動物に接近することは、動物に対する正しい判断力を狂わせる。動物たちが棲んでいる自然の中には、常に細菌とかダニ、あるいは毒蛇、毒草、海ならサメや有毒生物など、いろいろな危険が潜む。だが動物園や水族館では、それらが総て取り去られている。例えば私は度々アフリカでライオンに追いかけられたが、動物園へライオンを見に行ってライオンに追われることは、まず考えられない。また、オーストラリアでは毒草のためにほとんど下半身全体に発疹が出るようなめにあった。そこはカンガルーが棲んでいる荒地だったが、動物園へカンガルーを見にいって毒草にかぶれることもない。しかし、そういう野性地にカンガルーがいるのだということを知らないで何を勉強し、また動物園側は何の教育をしようというのか?
さらに困るのは、動物園や水族館を訪れる人々が、そこに囲われている動物を見て、相手が動物ならどのような扱いをしてもよいという不当な倫理的判断を無批判に受け入れてしまうことだ。相手が子供である場合、こうしたマイナスの教育効果は特に著しく、その影響は多くの場合その子の一生に及ぶ。つまり、動物園や水族館とは、動物や自然についての正しい認識を奪い取る施設で、偽物を本物と思い込ませる施設だということがいえる。よく、”母なる自然”ということを言う。母を知らない子供がいる時、だれか女の人を連れてきて「さあ、これがあなたの母です」と言った時、それは決して本物ではない。本物でないものを本物のように見せかけて欺く。つまり、動物園や水族館は偽の教育施設だということである。
研究や自然保護の役に立たない
動物園や水族館に押し込まれた動物たちは、その動物本来のものとは全く異なる行動を示すものが多い。このため動物の自然の姿を研究するのには役に立たないばかりか、動物についての誤った認識を助長する。
また希少化する動物の増殖に役立つということが最近特にいわれるが、この大義名分も一皮むけば、怪しげなものが多い。希少動物の増殖は、動物を見世物にしながらでは成り立たない。見物客を締め出して動物たちの平安を確保しなくてはならないからだ。しかし、それでは金儲けにならないので、掛け声だけはもっともらしいが、やっていることは客寄せ目当てのいいかげんなものが多い。また増殖した動物は自然の中へ戻して、初めてこの計画が完成するが、戻すべき自然がないことが多い。もともとこの計画は金が出る一方であり、現在の見世物動物園とは別の施設として出発すべきものである。言い換えれば、現在騒がれている希少動物増殖計画は見世物小屋としての現存動物園の延命策にすぎず、動物園や水族館がもつおぞましい面を覆い隠し、何とかして事業を潰さないで金儲けを続けようとする企業防衛なのだ。こうしたことに対する社会意識の高まりが先年のロンドン動物園の閉鎖騒ぎやイギリスでのイルカ水族館の連続閉鎖であり、この認識は急速に国際社会に広まりつつある。
自然の息吹きを取り去り、包装で欺く
自然の中には自然の霊気とか、あるいは様々に絡み合った生態系の不思議さとか、何とも言えない神秘的な感じが漂っている。しかし、動物園や水族館にはそういうものがない。自然や動物というものは、本物に接すれば接するほど、私たちは人間である自分を含めて、自然とは本来どのようなものなのか、又、その自然のなかで安らぎや不安を覚える自分とはいったい何なのか、といった自分の生きる意味を問いかける根元的な哲学、あるいは人によっては祈りとか宗教の世界など、目に見えない非常に貴重なものを私たちに与えてくれる重要な媒体である。ところが動物園や水族館にはそれらのものが全くない。この点で、動物園や水族館は、本来の自然からかけ離れた欺瞞に満ちた人工物だといえる。こうした数々の不当性を覆い隠そうとして近年特に激しくなっているのが、出版やテレビ、ラジオなどによる宣伝と、また何億という金をかけて施設を建て替えたり、新設したりしてその豪華さで人目を欺く方法である。今日の社会はさまざまな点で偽物と本物の区別がつきにくくなりつつあるが、特に動物園や水族館など自然と紛らわしい施設や展示物については見た目の華やかさや、もっともらしい宣伝文句に騙されない用心が必要である。
この記事は筑波学園都市で発行されている市民のための機関誌「筑波の友」(1996年9月発行123号、(株)STEP刊)に掲載されたものに多少加筆し、同社と筆者の同意を得て転載しました。
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